追記@アニメ『獣の奏者エリン』再考@エリンの木の下で

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ここは、上橋菜穂子さんの長編小説『獣の奏者』をもとに制作されたNHKアニメ『獣の奏者エリン』について語る裏ページです。
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ここを初めて見つけた方には、まずはじめにをお読みいただくことをお勧めします。

突っ込みは続くよ
どこまでも……


2013-03-13 更新

やめられない、とまらない

 ここには、新たに出てきた疑問や欠陥のうち、総論的なものや、これまでのページに挿入しようのないようなものを書き留めておきます。
 いずれ、時間があればふさわしい場所に組み込むかもしれません。

過剰すぎるナレーション

 この作品、何度も書いているように、「21世紀のハイジ」を目指したということです。
 確かにハイジの、当時は破格だったヨーロッパ現地ロケまで敢行して作り上げた背景美術の美しさ、動植物の表現などは素晴らしいものでした。
 IGのみなさんも、国内とはいえ自然の豊かな場所で合宿をなさったそうで、ハイジに倣ったエリンの、ハンパなく力が入っていた動物や昆虫の描写は、最近のほかの作品にはないほど突出していたと思います。

 ですが、ハイジは30年以上も前の作品で、現代の感覚からすると、作りが古いのです。
 残念ながら、このアニメエリンのスタッフは、ハイジをあまりに忠実に模倣しすぎたきらいがあります。
 象徴的なのが、ナレーション。いくつか例を挙げてみます。

押し付けがましく、息苦しい

 ツレの親が西洋の名作フリークで、ハイジのビデオを揃えたもので、以前帰省した時に一気見したことがあるのです。わたしもリアルタイムでハイジを見てはいたのですが、ディテールは忘れきれる得な性質のため、演出に関してはほとんど初見に近い感覚で鑑賞しました。
 そうしたところ、その説教臭さと押し付けがましさに閉口してしまったんです。

 さまざまなエピソードの中で、登場人物がどんなことを感じたかをナレーションで1から10まで懇切丁寧に説明。見るものが自分の物差しでキャラの心情を推し量る余地を与えてくれない息苦しさや教育的・説教的な側面が、ハイジを筆頭とする当時のあの枠の作品たちにはありました。それには、ハイジの制作に携わった高畑・宮崎コンビの思想的な影響もあるのかもしれません。
 作中のいたるところで「ハイジはこう思いました」的なナレーションが多用され、「このシーンでは、みなさんはハイジと同じようにこう感じてくださいね」と言われているかのよう。はっきり言って、とても押し付けがましい。

 特徴的なのは次回予告。
「昔のアニメって、次回予告でこんなことまで言っちゃうんだ...!!」って、かなりびっくりしたことを憶えています。
 ためしに、こちらをごらんになってください。個人の方のサイトですが、ハイジの次回予告が全話分網羅されています。エリンの次回予告も相当親切ですけど、ハイジの次回予告はその比ではありません。何しろ、その回のあらすじのみならず、そのときハイジがどう感じるか(嬉しいとか悲しいとか)まで明らかにしてしまっているのですから。
 そもそも、あの内容を読み切ると、当時の次回予告の尺は異常に長かったということがおわかりになるかと思います。

 そんな、私にとってはほとほと冗長にすぎるハイジ的演出まで、エリンのスタッフは踏襲してしまいました。
 以下はその例。

話末ナレーション

1話
「闘蛇は獣。エリンには、その言葉の本当の意味が、まだよくわかりませんでした。ただ闘蛇が、おとなしく、かわいいだけの獣ではないことを、エリンは知ったのです」

2話
「闘蛇は怖いもの。でもその前に、闘蛇が生き物であることを、その身体を磨きながら、エリンは感じていました。そして、頑張ってお母さんみたいな闘蛇のお医者さまになろう、と思うのでした」

 この、エリンの気持ちをまるっと"説明して済ませる"やりかたにどうもハイジ的古臭さを感じます。
 それにしても、2話分のナレーションの文句を続けて読むとかなり変ですね。
 エリンの闘蛇に対する印象って、「おとなしくかわいいだけ」から「怖い」に変化したとしても、生き物であることだけは最初の認知事項であるはずなんですが。認知の順番が倒錯していませんか?
 一体、このナレーションはなにを言いたいのだろう...。  

脚本家は映像不信?

4話 本編中ナレーション
「霧の市へ行ってから、ご飯を作るあいだも、磨き玉を作るあいだも、いつトンガリ山に霧がかかるか、気になってしかたがありませんでした」

 この場面では、エリンがしょっちゅう山のほうを気にしている仕草や、磨き玉を作る手が疎かになってチョクにたしなめられるなど、必要十分と思われる具体的な描写をしているのに、さらにナレーションをかぶせるという念の入れよう。

44話 本編中ナレーション
「一瞬、エリンの脳裏に、リランに襲われたときの恐怖がよみがえりました。しかしエリンは、その恐怖を振り払い、竪琴を奏でました」

 こういう心理って、前回のそのシーンをフラッシュバックさせてみたり、足がすくんだり、顔を冷や汗が伝って落ちたり、竪琴を持っている手が震えていたりとか、そういうクローズアップカットの積み重ねによって映像的に表現するべきものなのだと思うのです。
 たとえば、「ワンピース」のなかで、ルフィが強い敵に立ち向かうというようなヤマ場では、恐怖の表現として、握りこぶしを震わせているアップとか、使っているんじゃないでしょうか。そこに、わざわざルフィの心理を解説するナレーションが入ったら超興醒めでしょう?
 「ワンピース」だって結構小さい子どもまで視聴ターゲットとしていると思いますが、ナレーションがなくても充分伝わる映像表現の手法が、現代のアニメでは確立されていると思うのです。
 そういう努力が、エリンのこのシーンでは一切ないあたりがとても不思議でした。

 リランに襲われたシーンのバンク(使い回し)すら使わず言葉で済ませるなんて(ソヨンの死のシーンのバンクは大好きなのにねw)、なんだか、本来副音声でやるような、視覚障害者向けの解説放送の役割をナレーションに落としこんでしまったような...というかもう、アニメというよりは紙芝居みたいな印象です。
 エリンのスタッフは、映像の力をあまり信じていないのかもしれません。
 とにかく、全編にわたって、ナレーションの冗長さが耳障りでなりませんでした。ソヨン役の平田さんの声はとても良い声だと思うだけに、もったいなかったです。



 今後ここは気まぐれ更新になります。2011.7.22