イアル・エリンと竪琴問題@アニメ『獣の奏者エリン』再考@エリンの木の下で

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ここは、上橋菜穂子さんの長編小説『獣の奏者』をもとに制作されたNHKアニメ『獣の奏者エリン』について語る裏ページです。
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イアル・エリンと竪琴問題



2013-03-13 更新

すべてはイアルの生い立ちから……

 原作の改変でオリジナルを超えた良作に仕上がったアニメや映画というものを、私はついぞ知りません。
 その改変が真の意味で妥当なものだったのか、どうしても厳しい目で見てしまうものですから。
 一つの改変に辻褄を合わせるために芋蔓式に加えられていく小細工に、原作のストーリーの魅力やキャラクターの内面まで浸食されていくのを見るのは、悲しいことです。

 この作品の最大の欠陥は、元を正せばイアルの生い立ちを改変したことにあったと思います。
 竪琴職人の息子という設定にして、ハルミヤ陛下の行幸以前にエリンとイアルの接点を作っておく。たしかに、原作(闘蛇編・王獣編)ではそれほどしっかりとハッピーエンドになりそうな気配のなかった二人ですから、互いへの感情の進展を可視化するという点では、上橋先生ご自身も評価しておられるように、ある程度成功していたとは思います。

 原作のないオリジナルのストーリーとしてこの作品を見ることができれば、なるほど、結構うまく主人公のエリンと絡ませるエピソードをあちこちに仕掛けて大団円に持っていけた、よく出来た設定だなあで済んだのでしょうが、不寛容な原作厨である私にとっては、そう簡単に割り切ることはできませんでした。改変によって生まれた数々の矛盾のみならず、ケアレスミスが織り合わさって生じた強い違和感を今でもしばしば感じます。
 アニメを見返すときだけでなく、原作を読み返している時にも逆フィードバックが起こって、「やっぱり、あれはなかったよな...」と考え込んでしまうこともあり、そのたびに、ほんとうにその改変は必要だったのかな??? ...と、首を傾げてしまうのです。

 この改変にまつわる問題を、順を追って挙げていきます。

【1】エリンがイアルと出会い、竪琴を譲られたときのジョウンの反応

 エリンが10話で竪琴を受けとった時、居合わせたジョウンの反応は、「いい竪琴だな」と一言言うだけの薄いものでした。
 それが、12話で夏の小屋を訪ねてきた教え子のカロンと夜の焚き火を囲んだ場で、彼がおもむろに竪琴をとりだしたとき、ジョウンは唐突に、
「俺は弾くだけじゃなくて、竪琴づくりだってできるんだぞ」と告白するのです。この奇妙さ。それまでは、ジョウンは自分が竪琴フリークであったことをすっかり忘れていたかのようです。
 竪琴づくりに熱中するほどだったのなら、エリンが竪琴をもらった時に、そうと仄めかしておいてもよさそうなものでは?

 この作品の脚本には、説明的すぎて目立つ欠点の方がはるかに多いのですが、ここは逆に、必要なところで必要な前振りをし損ねたことによる不自然さの際立つところです。
 10話と12話、別々の回にわかれているためになんとなく見過ごしてしまうでしょうけれども、これを続けて見ると、「あれ?」と気がつくはず。4話の、チチモドキ混入事件の時にやらかしたセリフまわしのちぐはぐさと、根っこは同じです。あっちは、同一回の中で起こっただけに目立ちますけど、本筋的に重要なのはこっちです。

なぜ、起こったのか

 このような唐突さ、不自然さ...なぜこういうことが起こってしまうのでしょう。
 おそらく、各話シナリオ担当がローテーション制であるため、全体の流れが厳密に把握できていないのはないでしょうか(そこをチェックするのが誰の役目かは、推して知るべしですよね)。

・○話ではこれこれこういう伏線を張って、○話で回収する
・○話で誰それにこのアイテムを入手させ、○話でそれを使わせる

というようなノルマのリストだけを見て脚本を書いているとしか思えません。そして、その関連する回も別個の脚本家が担当しているために、時間経過があっても符合しなければならないディテールへのチェックが疎かになっているのでは...?

 なまじ原作にないオリジナルのエピソードだっただけに矛盾が悪目立ちしてしまった例と言えますが、しかし、この10話から12話の流れには、単にセリフ回しのことに留まらないおかしいところがあります。

【2】エリンが竪琴を弾きはじめるタイミング

 10話でイアルにもらった竪琴がそれほど気に入ったのなら、家にもどったら、もしくは帰り道でだって早速いじり始めたくなるのが子供というものでしょう。12話でカロンが訪ねてくるまでにはジョウンに多少の竪琴の手ほどきを受けていても不思議ではない、というかその方が自然ですが、次の11話では完全スルーのまま、エリンは竪琴に触りもしません。12話でも、山小屋に着いて掃除を始め、ジョウンの楽器コレクションを見つけていじったりするエピソードまで仕込んでおきながら、カロンが現れる後半まで、エリンは一度も竪琴を自分から弾こうとしていなかったのです。

 にもかかわらず、カロンの演奏を聞いたとたんに耳コピ、ウォーミングアップもなしに見事な運指で弾きはじめてしまうエリン...。エリンの絶対音感が優れていることを示すためとはいえ、どんな超人設定ですかw
 大袈裟に驚くジョウンのセリフからして、それまで竪琴にまつわるやりとりがなかったことを示しながら、ですよ? しかもそのときの、驚く大人二人に「なんとなく弾いてみただけです」と、しれっと言ってのけるエリンのセリフもなんか、イラッとくる感じだし。

ではどうすればよかったか

 たかがファンの分際で僭越ですけれど、ストーリーを組み上げるのにせめてもう少し細かい配慮をしていたなら、こうもできたでしょう。

  1.  エリンがイアルから竪琴を譲り受けるのは、夏の山小屋に引っ越す途上でサリムの街に寄ったとき、ということにする。まあ、凸凹と再会するのはここでいいでしょう。
  2.  エリンが竪琴を譲り受けたとき、すぐにジョウンに自分と竪琴との関わりを明かさせる。「こりゃ竪琴じゃないか! 実は俺も竪琴を弾けるんだぞ。山小屋に着いたら、弾き方を教えてやるからな」くらいのことを言わせておけばいいだけなのです。
  3.  そして、山小屋に着くと、もうカロンが待ち伏せていれば、その晩すぐにエリンに竪琴を触らせ、エリンの絶対音感に気づかせることができる。

 これでより自然な流れになるはずです。
 毒の書を盗み読む場面は、上記 i. よりも前、引っ越しまでに済ませてしまえばいい。凸凹との再会前になりますが、凸凹と毒饅頭のエピソードなどなくても、原作通りにすればいいだけです。
 エリンが王獣の羽根を拾うエピソード? 順序を前後させて、カロンを見送った翌日に拾わせて、「これが、昨日あのおじさんが言ってた獣の羽根かなぁ?」とエリンに言わせればよかったのではないですか?

 きっかけはどうあれ、ともかく、エリンは竪琴と出会い、その類い稀なる絶対音感の片鱗を顕わしたわけです。次は、その竪琴をエリンがどう扱っていくか、という問題。

【3】なぜ、エリンに大切な思い出の品に手を加えさせてしまったの?

 原作では、エリンはジョウンとの暮らしのあいだに、木の素材や本体の形状、あるいは弦の張り具合、それらの組み合わせによって竪琴の音色が様々に変化することを熟知していて、カザルムに入舎する際には自作の竪琴を3つ持参し、リランのための細工にはその中の1つを使うことになります。

 アニメ15話冒頭のやりとりで、ジョウンはエリンの竪琴の腕前を讃えるのです。よく聞いてください。

「――だが、その竪琴づくりも演奏も、おまえに抜かれてしまった」

 原作の設定を曲げているわけではありません。しかし、この場合はむしろそれが大きな墓穴を掘ってしまっています。この原作にはないセリフが匂わす重大な事実――つまり、この時期には、エリンは自力で竪琴を製作できるようになっていて、おそらくは作った竪琴の数も一つや二つではないのだろう、と、見るものに印象づけてしまっているのです。
 「エリンは学舎にはイアルの1本しか持ってこなかったんだよ!」ということにしたかったのでしょうが、その情報は残念ながら、充分には与えられていません。

 そういう状況で迎える22話で、エリンは、イアルの竪琴を細工に使おうとします。いくらリランのためとはいえ、不可逆の細工を楽器に加えることになるとわかっていて、自作のものではなく貰いものの竪琴を使うという神経が、私には理解できません。たまたまイアルと再会できてうまくいったからいいものの、普通ならね、失敗するかもしれない細工のために、大事な思い出の品に真っ先に手をつけたりしないでしょう? 
 もちろん、細工を始める前にエリンに躊躇させ、最終的にはイアルに後押しをさせることで、多少その印象の悪さは緩和されているのですが、エリンが竪琴を作る腕前を持っていることを認知している視聴者は、「それ以前に自分のを使えばいいやん!?」と思うのが自然ではないでしょうか。

 このことをふまえて時系列でチェックしていると、他にも気になる点がありました。
 上のジョウンのセリフが15話です。エリンはもう、ゼロから竪琴を作れることになっているのだから、16話の壊れた竪琴の修理も、22話の竪琴への細工も、自力でできたはずなのです。
 それを、いちいちヤントクの店に向かわせた――イアルとの接点をつくるため、ですよね。
 そこまでしてどうしてもこのエピソードが使いたいなら、もう少し、気配りが欲しかったのです。

いっそこうしたらよかったのに……

 こういう、一般的な感覚とかけ離れた行為をさせてしまうときは、納得できる理由を明示するべきだったと思います。もちろん、上で触れたように、「エリンがカザルムに持ってきた竪琴はイアルにもらった1本だけだったから」とすることも出来ますが、だとすると、1本にしなければならなかった理由づけが弱いでしょう。そこまで私物の持ち込みに厳しい学舎だ、というところまで説明するのも、むしろ手間ですからね。
 だったら、こういう方法もあったはず。
 「エリンは弾けるようになったけど、竪琴づくりまではできるようになりませんでした」とするか、さもなくばいっそ、「ジョウンは弾けるだけで、作るまではしない人だった」としていれば、エリンが修理や改造のたびに他人を頼ることの不自然さは解消できます。
 そして、エリンの記憶にある音感をたよりにイアルに細工と仕上げの調律をしてもらいながら、エリン自身、自分でも手入れできる程度のノウハウを教えてもらう。なにしろ、弦楽器の音は狂いやすいものですからね。
 たとえ原作と異なっても、こういう筋書きのほうがまだましだったのではないでしょうか。

 そして、もう一点。これらの問題がすべて出揃うと、作品への残念感もピークに達します。

【4】「音色」から「曲」へのすり替え

 なぜ、エリンと王獣とのコミュニケーションを途中から「音色」ではなく、「曲」でさせるようになってしまったのでしょうか?

 原作では、エリンは、竪琴で王獣の親の鳴き声をまねることに非常に心血を注ぎました。最初はとにかく「ロン」という音を出すためだけに竪琴を改良しましたが、やがてリランが回復すると、音色と言葉と行動を組み合わせてコミュニケーションをとることを模索し始めます。
 リランがあまりに賢いため、のちにエリンとリランは言葉だけで通じ合えるようになってしまうのですが、行幸でハルミヤを庇うときも、ラザルに連行され、オウリに餌をやるための技として竪琴の弾き方をレクチャーするときも、エリンは王獣に対して一度も「曲」など弾いていません。
 なのに、アニメではいつのまにか、王獣との会話は「曲」にすり替えられてしまいました。44話ではオウリにまで、いきなり「曲」を覚えさせて弾かせるのです。

 そもそも、特殊な「音色」を発するために改良された竪琴で、まともな音階が奏でられる余地が残っているとは思えないのですが、なんで「曲」を弾かせたかったのか。答えは簡単。エリンは改良後の竪琴でも「曲」が弾けるのでなければ、のちの演出で困るからです。

・40話、闘蛇襲撃事件の後、カザルム侯の館で傷ついた楯を慰めるため、「夜明けの鳥」を弾くエリン
・46話、ラザルの王獣舎で匿ったイアルに求められて、竪琴を奏でるエリン

 どちらも、それだけを見れば美しいし、私も以前は結構好きだったシーンでもあります。そのためには、旋律を奏でられないほどの細工が竪琴に加えられていてはマズかったのです。

竪琴の音色と王獣の鳴き声の作りこみの甘さ

 そして、肝心な竪琴の「音色」ですが、これまた残念。
 エリンが、音程・音の長短・余韻・音の続け方を精緻に模倣しなければ通じないだろうと懸命に考え、その絶対音感を駆使して似せたはずの王獣の鳴き声に、最後までまったく似て聞こえなかったのが、ほんとうに残念なことでした。
 その似ていなさ加減は、「あれほどかけ離れていても通じちゃうんだ」と、見るものにたかをくくらせるに充分なものでした。だからこそ、肝心な「音色」がいつのまにか「曲」へとすり替えられても、たいした疑問も持たれなかったのでしょう。
 でも、物語の鍵である竪琴の「音色」をおざなりにするようなそんな改変、迷惑なだけです。

 くり返します。なんで、「曲」にしてしまう必要があったのですか???

名入りの竪琴を治療の現場に持参する不思議

 そういえば、カザルム侯の館にはリランを置いて負傷者の手当てのために行くのに、なぜか竪琴だけは持って向かったのですよね。まるで、行った先で竪琴が必要になると予知していたかのよう。そんなところにも、ご都合主義の片鱗が窺えます。
 39話で、イアルが、エリンと自分が知り合いであることを匿そうとして他人の振りをするシーンがあり、のちにその理由を明かし、エリンに詫びる。この一連の流れにおいて、エリンは、自分たちの関係が漏れることはまずいのだと理解しているはず。なのに、名前の彫り込みがばっちり入った竪琴を持ってカザルム候の館を訪ねるというのも、よくよく考えると妙な話です。
 薬持って手当てをしに来た教導師の女人が、なんか知らんが竪琴持っとる...ってすごく目立つし、またイアルの名前もこれ見よがしな場所に入ってるし。サイ・ガムルっていろんなところに紛れ込んでいるんじゃなかったかな。関係がばれて迷惑がかかる可能性とか、考えなかったのでしょうか。

とりあえずのまとめ

やっぱり、改変って必要なかったんじゃない?

 私が、指物師のイアルを愛しているが故に、改変箇所への評価がどうしても辛口になってしまうのは確かです。 
 しかし、上記の問題すべてが、イアルを竪琴職人の息子にした、その一つの改変に端を発するものなのだと気づいた時、思ってしまったのですよね。

「そんなにしてまで改変しなきゃならなかったかな? ほんとうに、原作に忠実なままではアニメ化が不可能だったのかな???」と、

 この深〜〜〜い疑問については最後で再び触れることになりますが、ひとまず22話以降のチェックに移ります。